1300年間湧き続ける湯の力、町の力、人の力に懸けたい!〜自遊人・岩佐十良氏が語る『松本十帖』・前編〜
チェックインレセプションは芸妓の練習場!?
「まずはお好みのおやきとお飲み物をどうぞ」。
案内されたのは、昭和元年に建てられた建物の2階。
ミシミシという音が何とも心地良い階段を登ると、見事な梁とあらわになった土壁に目を奪われる。こんな瞬間に、ああ旅に来たんだなと思う。聞けばここは、かつて温泉芸者らの練習場だったところとのこと。ちなみに1階は、その芸者たち専用のお風呂だったそう。(※現在は地元の人のみが入れる共同浴場となっている)
2022年夏・グランドオープンした「松本十帖」での時間は、そんな粋な三味線の音が遠く聞こえてきそうな、ここ「おやきと、コーヒー」から始まる。
もっちりとした蒸し焼きスタイルのおやき。迷わず選んだのは大好きなあんこ。材料は全て長野県産とのこと。
名古屋から浅間温泉までは中央道を走り、松本インターを下りておよそ20分。季節の移り変わりを色濃く感じられる中央道は、運転好きの私にとっては魅力的だが、名古屋から3時間の運転でさすがにちょっぴりお疲れモード。そんな時のあんこは私にとっては最高のパワー源だ。
コーヒーで一息ついていると、若いスタッフの方が宿のルームキーを持ってきて、館内での過ごし方など、説明をしてくれる。このカフェが、宿「松本本箱」と「小柳」の駐車場であり、チェックインレセプションなのだ。
その時、颯爽と目の前に表れたのが、松本十帖のオーナー、岩佐十良さん。
簡単にご紹介させていただくと、雑誌「自遊人」の編集長兼クリエイティブディレクターであり、新潟の大沢山温泉に「里山十帖」をはじめ、滋賀県大津市や神奈川県箱根町に独自のコンセプトで宿を創り、今回手がけた「松本十帖」も、すでにさまざまメディアから注目されている。
松本十帖とは、宿名ではない。敷地内に「松本本箱」と「小柳」という2つのホテル、ブックストア、ベーカリー、ショップ、醸造所、湯小屋などを設け、さらに敷地外には「カフェ おやきとコーヒー」「哲学と甘いもの」がある。これら全ての総称だ。何なる宿だけではなく、エリアをリノベーションすることが目的で立ち上がったというのが最大の特徴。岩佐さんの温泉街への熱い思いがそれだけでも伝わってくる。
温泉街さんぽで浅間の湯の歴史にふれる
まだ自遊人の編集部が東京にあった頃に、一度だけお会いしたことがある。なんと物腰の柔らかな編集長だろうと強く印象に残っている。
久々にお会いした岩佐さんは、その時と驚くほど何も変わっていなかった。不思議なまでにその場の空気に馴染んでおり、穏やかな笑顔で目の前の人を包み込んでしまうような温かさが感じられる。まあとにかく、お会いするとほっこりするのだ。
「ようこそ。おやきはいかがですか?おやきって長野にも色々あるんです。うちのは小麦粉ですが、そば粉を使うもの、もちろん中身も野沢菜やあんこやかぼちゃやりんごなど。どれも長野県では収穫できるものばかりなんです。特に信州産の小麦は質が良くてとても貴重なんです。パンも美味しくて、ついつい買っちゃうんですよね」。
と、少年のように笑う。
ここから今日の宿泊する「松本本箱」までは、徒歩で3分。送迎もしてもらえるが、岩佐さんにお願いして、少し温泉街を散策することにした。
浅間温泉。温泉地名は知っていても、その中身についてはお恥ずかしながら知らなかった。足を運んだのも初めて。ところが、松本駅まで車で20分弱。かの小澤征爾氏が指揮する「セイジ・オザワ松本フェスティバル(旧称サイトウ・キネン・フェスティバル)」の会場の一つ、「キッセイ文化ホール」からなら5分ほど。5年前に演奏会に訪れていたのに、浅間温泉の存在など全く知らなかった。重ね重ねお恥ずかしい。
昔ながらの町の薬局や土産物屋を目に、路地をぶらぶら。途中、湯桶を抱えた地元のおじさんとすれ違うのも、今ではあまり見かけなくなった温泉街の光景だ。「こういう坂道って、風情ありますよね」と岩佐さん。湯坂通りを抜け、町を見下ろす細い道へ案内された。
「ここは浅間温泉の“源泉通り”ともいえる通りで、源泉が集中しているんです。1300年の歴史がある浅間温泉ですが、江戸時代には松本城主が通う「御殿湯」が置かれ、そのすぐ下手には上級武士のための「柳之湯」、さらに下流武士のための「小柳之湯」と、この通り沿いに並んであったんです。そしてその先には、5世紀のものと言われる古墳もあって。
あまり好きな言葉ではないんですが、いわゆるパワースポットと言うんでしょうかね。なぜか源泉から感じる土地のパワーみたいなものが、この通りから強く感じられたんです。あとはお湯そのもののパワーですね。浅間温泉は全国でも数少ない自然湧出の温泉で、湯量も豊富。そんな不思議な力に溢れているんです」。
この通り沿いにグランドオープンしたのが、「松本本箱」と「小柳」だ。
現在、「御殿湯」は日帰り入浴施設の「枇杷の湯」として残り、「柳之湯」は地元の人専用の共同浴場に。そして「小柳之湯」は、松本本箱と小柳のちょうど真ん中に宿泊者専用の湯小屋として岩佐さんが復活させた。浅間温泉には、地元で管理、運営している「湯仲間」があり、一般旅行客が入れない外湯が何ヵ所もある。せっかくなら…と、岩佐さんがその外湯の雰囲気を味わってほしいと作ったものだ。
「学・楽・岳」が再生のテーマに
「共同浴場が点在するのに、旅行客は入れないからつまらない…。そんな声もよく聞きます。この共同浴場は行政が管理しているわけではなく、湯仲間で資金を募り、自分たちで維持管理しています。昔ながらの“地域で守り継いでいる浴場”です。私はこれこそが浅間温泉の魅力だと思っているんです。温泉は生活の暮らしの中に当たり前のようにあって、町と共存してきたものです。地元のじいちゃんが、ステテコ履いて首にタオル、脇に湯桶というスタイルでぶらぶら歩いてお湯に浸かりに行く。そんな景色は大事に守っていくべきものだと思うんですよね」。
「ここは寒いし海もない。こんな立地でなぜ古くから賑わっていたのか。温泉が湧くから人が住んだ。そういう町なんですね。やっぱり温泉が人を引き寄せる力を持っているんですよね」。
淡々と語ってくれる岩佐さん。その語り口からは地元愛が滲み出ている。
ところで岩佐さん、松本の町とは深い繋がりが?
「あはは。全く何もないんです。強いて言えば、小学生の頃、親に連れられて山登りに来ていたことぐらいでしょうかね。夜行列車の床に新聞を敷いて、その上でゴロンと横になって朝には松本へ。夏休みの恒例行事でした。懐かしいです」。
その時に見た山の景色や色彩、空気の肌ざわりなど、岩佐さんの記憶のどこか、体の隅っこに刷り込まれたものがあり、自然と引き寄せられたのかもしれない。
それにしても、今回の松本十帖の立ち上げには相当の資金を要したと耳にしている。
これほど大きなプロジェクトを手掛けることになったきっかけは?
「今回のプロジェクトは、長野県の八十二銀行から話をいただいてスタートしました。温泉街にあった「小柳旅館」を引き継いで欲しいと。小柳旅館は、1686年創業の老舗宿です。温泉街自体が、かつてのような賑わいが見られなくなってきて宿自体にも活気が消えていきました。しかし、長い長い浅間温泉の歴史を振り返ると、元気がなかったのはここ最近だけなんです。この地力、湯力があれば、人はまた引き寄せられる。そう思って、引き受けることにしました。
ここで再生できなければ、日本中どの温泉地も厳しいと思っています。逆に浅間温泉が活性化すれば、全国どこでもできるはずなんです。松本市は県庁所在地でもありません。長野県2番目の都市です。ただ人口は減らないし、独自の文化圏を確立しています。食も豊富で美味しい店もたくさんあって、地元の人たちで賑わっています。物価も高くなく、環境も申し分なし!地元で全て完結してしまう豊かな町なんです。みなさん残業なんてしません。定時で帰ってオフも楽しむ。そんな地方都市のおもしろい要素がたくさんあるんです。
もう一つ大きな特徴は、信州大学があることですね。松本は教育の町でもあります。あとはみなさんご存知の、小澤征爾さんの演奏会が開かれる町ですし、草間彌生さんも松本出身です。『学・楽・岳』の町と言われており、ここに浅間温泉の活性化のヒントがあると考えました。その中の「学」をキーワードに、ブックホテル「松本本箱」を作ろうと思ったんです。「箱根本箱」とは全く違った本のセレクトが特徴です」。
もう一つの宿「小柳」は、前身の「小柳旅館」からそのまま宿名を受け継いでいる。こちらは全くコンセプトが異なるという。その想いは?
「小柳は家族3世代で来る宿でした。歴史も格式もあって、小柳で一族が揃ってお祝い事をすることが、地元の人たちにとってはある意味ステイタスだったんです。そんな大切な場所をなくしてはいけないとまず思いました。歴史を受け継ぐと言いますか、3世代が楽しめる宿を作らなければと。なので敢えて「小柳」という名を引き継いだんです。
ただ、家族向けの宿と一言で言っても、今の時代にマッチした、ファミリー層に寄りすぎず、少しオシャレな宿を創りたいと思っていました。ファミリーをターゲットにすると、どうしても子どもに合わせる宿になってしまいます。そうではない、誰もが我慢しない、心から楽しめる宿にしたかったんですが、参考例がなくて…。
まず客室ですが、いかにもファミリー向けというものは使わず、家具も上質なものにこだわりました。お風呂にも車椅子で入れる、完全バリアフリーの部屋も作りました。
あとは料理ですね。小柳のファミリーダイニングは、信州イタリアンがテーマです。地元の食材を使い、食品添加物をいっさい使用しない、安心して食べられるイタリアンであることはもちろんですが、“1時間で食べられるコース”というのがポイント。子どもたちが飽きないよう、短時間で、でも本格的なコース料理が食べられることを考えました。
子どもたちは走り回ってOK!お行儀が悪くてもOK!子どもたちが楽しめるように、大画面のプロジェクションマッピングを設置。絵本やおもちゃも用意しています。ファミリー向けでも、料理は妥協しない!親も子も満足できるレストランにしています。基本的にはファミリー向けですが、ここのイタリアンが好みだからと、お子さん連れでない方の予約もあるんです」。
さて、そろそろ日も傾きかけてきたところで、本日の宿「松本本箱」へ。
続きは後編へ。
♨️浅間温泉
泉質:アルカリ性単純温泉(pH8.9)
泉温:49.7℃
湧出量:1,506リットル/分