なぜ湯治場で坐禅体験をはじめたのか?
少し前から、宿で坐禅体験をはじめました。地元の御住職に協力をいただき、また、お客様にも支えていただき、ありがたいことに3年ほど続けさせていただいています。
坐禅は、仏教で修行僧が悟りを開くための修行の一つです。
なぜ坐禅を宿でとりいれたのか?お客様からも聞かれます。
これを話し出すと、学校の校長先生のお話くらい長く感じる話になってしまうので、今日は入口だけ、、、綴ります。
それは「自分で気づかないうちに、自分の心(脳)はいろんなものに反応している」ということを、感じていただきたい。と思ったからです。
決してうちで悟りを開いていいただこうとは考えておりません。笑
私たちは普段、自分自身の行動を、自分自身の意志で、考え、行動している、と捉えています。自分自身を自分の意志で動かしていると思っているわけです。しかし、最近の脳科学の分野では、私たちの意志の影響は極めて少ないということが分かってきました。約9割が無意識の行動、または外部からの刺激に対しての反応だというのです。
「えー?そんなわけないでしょ。」
と、思った方も多いでしょう。わかります。でも、考えてみてください。呼吸するとき、「よっしゃ、横隔膜広げて空気取り込んで、毛細血管に酸素をとりこんで、二酸化炭素は毛細血管から肺胞にとりこんで・・・・」とか考えませんよね?あと、「目が乾きそうだから、眼球の表面の水分量が減ってきたら瞬きをしよう」とか考えませんよね。
生きる上での基本的な機能は、ほぼ無意識に行われています。そして私たちの意思決定もかなりの割合、無意識下で勝手になされていることが多いそうなのです。
その最たる例は感情で、人間の感情はまさにオートマチックです。例えば、あなたが道を歩いていて、人にぶつかってしまったとしましょう。
ある人は「痛いな!なにすんだこの野郎!」と思うかもしれません。ある人は「ごめんなさい!本当にすみませんでした!」と申し訳なく思うかもしれません。
人それぞれ、湧いてくる感情は様々かと思います。「!!!!出会いに感謝!!!」とか思う人もいるのかも。笑
いずれにせよ、その感情は「よし、イライラしよう!」とか「よし、申し訳ない、と思おう!」って、自分で意図的に思うわけではありませんよね。勝手に、気づいたらそういう感情になっている。湧いてきた感情を、後から自分の感情だと認識しているのです。
つまり、自分で意識して怒ったり、申し訳なく思っているのではないんです。私たちの脳が、自動的に反応して、それを後から意識が認識するんですね。その反応自体は人それぞれなんですが。
上記のようなことを、私達は意識して行動しません。でも、私達の脳は、実際に毎日起きているときも寝ているときも、多種多様な生態反応を行い、膨大な情報に反応をしてくれているのです。
そして、そんなことを体感できるのが、坐禅だと思っています。坐禅には目的はありません。目的が無いというと語弊がありますが、只管打坐といって、ただ座る、ことに徹する。それが目的です。ただ座り、ただ深く、息を整える、それだけ。
やってみるとわかるのです。ただ座ることに徹することの難しさ、そして先述した、いかに自分の脳=心が、自分の意図していないところで様々な働きをしていることを。
考えようとせずとも、「あ、そういえばあれどうなってたっけ・・・?」「・・・・あ、いまなんか思い出したな」とか、私たちの頭は勝手に反応したり、思いついたりします。
私は思いました、、、、
「いつも気付かないところで、いろいろ自分の面倒みてくれて、ありがとね、我が身体」
と、それ以前は、自分の意識していることだけが全てと思っていました。自分の身体なので、それが当然だと。でも、けっこう、いや、もうかなり、そうではなかった。自分の体は自分が気づかぬところで、いろいろやってくれているんだ、ということに気づきました。
休むことの難しさはここにあると感じます。自分ではコントロールできない体の機能を休ませてあげるには、意識ではどうにも難しいところがあります。もちろん、鍛錬を積めばまったく不可能ではないと思うのですが、一般的な人には、少しハードルが高い。そういった環境が必要です。
それが、私達が求めている宿の環境、思想、考えなんだなと、改めて思ったのと共に、湯治場と呼ばれるところは、もともとそういう環境が備わっていて、昔から人々を癒してくれていたんだと思うのです。
それと共に、自分の感情や、行動がわりと自分の意図しないところにある。ということを客観的に捉えたり、考えることができるようになると、ストレスを溜めづらくなると考えています。
精神的に疲れてしまう、ストレスを抱えてしまう人は、真面目で責任感が強い人が多い傾向があるそうです。ある意味で自分に矢印を向けることはプラスになることもありますが、それもバランスです。向けすぎた矢は自分自身を傷つけてしまうこともあります。
例えば、うまくいかずイラついてしまう自分自身を「未熟だ」「ダメな人間だ」と思ってしまったり、感情的になりつい言いすぎてしまった自分を「酷い人間だ」「攻撃的な人間だ」と責めてしまったり。
そんなときに、ちょっとでも先程述べた経験と知識を持っていれば「とはいえ、勝手に反応しちゃうもん」と客観的に捉えるだけで、対処の仕方も変わります。「反応しちゃうんだったら、そういう環境を避ければ良い」という考え方もあります。「反応が分かっているから、落ち着くまで待てば良いや」という、事前の心構えも出来ます。反応してしまうものはしょうがない、すること自体は悪ではない。のです。
そもそも、私たちの脳がなぜそのように反応するか?というと、数十万年の人類史上始まって以来、そのような反応をすることが、最も、生存確率が高かったから、と考えられます。だから、なーんにも、悪いことではない。
ただ、だからといってその反応が赴くままに行動するのは現代人としていかがなものか、ということもありますので、そこは理性と知性の見せ所。そこに生き方、というものが出てくるのかと。
ダラダラと綴ってしまいましたが、要は、
「自分で気づかないうちに、自分の心(脳)はいろんなものに反応している」
ということを、知るだけでも、世界の見方が変わる。また、自分を休ませることの考え方も変わる・・・・かもしれない。きっかけになる・・・・かもしれない。
という、ことを、感じて頂ければいいなと思ってはじめた坐禅体験でした。坐禅をしているときは、そんなこと考えないでくださいね。「喝!」されますので。