一体、私たちは何に追われているのだろう
湯治宿という宿の性質上、都会の喧騒から離れ、疲れを癒すことを目的にお越しになる方がほとんどです。中には、アンケートに「心身ともに疲れ果て、やっとこちらに駆け込めました」といったお声を寄せてくださる方も少なくありません。
私たちも、そのようなお客様の力になれること、そして活力を養ってお帰りいただけることに、大きな喜びを感じております。一方で、「何がそこまで人を疲れさせてしまうのだろうか」と、ふと考えてしまうこともあります。
自在館にいらっしゃる方のように、あらかじめ「駆け込み寺」としての場所を持っている方は、まだ恵まれているのかもしれません。しかし世の中には、我慢を重ねすぎた結果、心や身体の調子を崩してしまう方も少なくないのではと感じています。
人には「もっと、もっと」と求める欲望があります。この欲があったからこそ、人類は文明を発展させ、今の豊かな暮らしを築いてきたのだと思います。しかしこの力は、良くも悪くも非常に強いものであり、古くからキリスト教では「大罪」、仏教では「煩悩」と呼ばれ、戒めの対象とされてきました。
厄介なのは、この「欲」は、自分では気づかないうちに働いているという点です。失敗談などを耳にすれば「自分も気をつけよう」と思うのに、日常ではほとんど無意識に、その欲に突き動かされてしまうのです。
SNSを見て、他人と自分を比較してしまう。
もっと良い家や環境に住みたい。
今より高収入の仕事を探してしまう。
「なぜ、そう思うのか?」と尋ねられても、ほとんどの人は「……なぜだろう?」と戸惑ってしまうはずです。
SNSを見て落ち込むのは、無意識に自分の今の状況を「足りない」と感じてしまったから。
より良い暮らしを求めるのは、他人の生活をどこかで羨んでいるから。
これらの感情や思考は、ほとんどが無自覚なものです。
だからこそ、こう思うのです。
人を疲れさせているのは、外の世界ではなく、自分自身なのではないかと。
もちろん、「より良く生きたい」と願うことは、決して悪いことではありません。むしろ自然な欲求であり、素直に従うべきものです。車にたとえれば、アクセルのようなもので、人生という道を前に進むためには欠かせない存在です。
けれど、私たちは「ブレーキを踏むこと」も忘れてはいけません。どんなに性能のよい車でも、スピードを出しすぎれば事故を起こし、自分だけでなく他人をも傷つけてしまうでしょう。
人には「理性」というブレーキ機能が備わっています。自分を客観的に見つめ、コントロールする力。そして、「疲れた」「だるい」「やる気が出ない」といった感覚は、無意識のうちに体が発してくれているサインです。
「ちょっと、このままだと危ないよ」と、自分自身が教えてくれているのです。
その声に耳を傾けられるのは、他の誰でもなく、自分自身だけです。
「がんばって」という言葉の多くは、実は無味乾燥な社交辞令に過ぎないこともあります。
「肯定的なことを言っておけば角が立たない」――そんな空気が、今の社会には漂っています。
だからこそ、私たちはこう伝えたいのです。
「休んでもいい」「がんばらない日があってもいい」と。
「がんばる」と「休む」は、どちらか一方ではなく、両方あってはじめてバランスが取れるもの。
がんばることと同じくらい、休むことを大切にしてほしい。
湯治に訪れる皆さまが、そんな空気を少しでも感じてくだされば、私たちにとってこれ以上の喜びはありません。
湯治宿としての本懐を、そこで果たせるのだと思っています。