鬼が温泉を守る-登別温泉-
地獄は怖い

火傷するほど高温の熱気が大地からもくもくとあがる風景を、昔の人々はまさにこの世の地獄と恐れました。温泉県を名乗る大分県の別府温泉には7つの異なる温泉の色を楽しむ「地獄めぐり」があり、人気の観光コースになっています。地獄があるのは大分だけではありません。北海道の登別温泉、群馬県の草津温泉や万座温泉、長崎県の雲仙温泉など、全国の火山性温泉では水蒸気などを含む火山ガスがあちらこちらに白い煙が噴出しており、「地獄」や「地獄谷」と呼ばれます。地熱や火山ガスにより草や木など育たず、岩の表面がむきだしになっている不気味な光景も地獄のイメージと重なるのでしょう。
そして地獄の煙の奥には鬼がこん棒をもって立っているのです。でもでも、そんな鬼だって、たまにはいい湯だなとくつろぎたいはず。

……というわけかどうかわかりませんが、「地獄谷」のある登別市では、市制施行50周年を記念したロゴマークに鬼が温泉に浸かるデザインが採用されています。

さらにこの登別温泉では2000年8月、「全国鬼サミットのぼりべつ2000」が登別市の呼びかけにより開催され、日本の鬼の交流博物館がある京都府大江町をはじめ三重県上野市・長野県鬼無里村など、12市町村100人近くの「鬼」にゆかりのある市町村が集りました(市町村名はすべて当時のもの)
登別温泉の入り口では親子鬼象が、また、温泉街への途中にある閻魔道では閻魔様のからくり人形が観光客をお迎えします。

クマ牧場の近くには湯かけ鬼蔵がありますので、無病息災、諸病平癒を祈り、霊験あらたかな温泉の湯を鬼象に掛けましょう。地獄谷の入り口には祠があり江戸時代から伝わるという「念仏鬼像」が祀られています。その両側に大きな赤鬼立像と青鬼座像が祠をお守りしています。温泉街の3カ所に鬼のモニュメントがあり、温泉のお祭りにも鬼が登場するなど、登別温泉は鬼と深い関係があります。

登別温泉の歴史
江戸中期の探検家最上徳内が記した『蝦夷草紙』に「ノホルヘツという小さな河が有る。上流の山奥に硫酸の山があり、温泉が湧き出ている。谷々より流れが集まり一つの河と成りこのノホルヘツに流れ出て来る。この河の水は白粉と紺青を混ぜ合わせたような鼠色で、小さな河だけれども濁っていて底は見えない」と書かれています。

蝦夷を北加伊道(北海道)と改称するべきだと提案した松浦武四郎は蝦夷探検の途中に登別温泉を2度訪れ(弘化2(1845)年、安政5(1858)年)、「東蝦夷日誌」に2度目の訪問時に目にした温泉利用の様子を記しています。
「幌別を少し過ぎるとヌプルベツフト(登別川)という温泉の川がある。ヌは湯、プルは強いという意味である。坂を少し降りると温泉場があり、今では宿もできて、湯治をする人もいる。ムシロを川の中に敷いて温泉に浸かるが、その上に屋根もある。西から流れるシュンベツという水の川と東から流れるクスリサンベツという熱湯の川を混ぜ合わせて適温になっている。」。川の上に屋根もあり、簡素ですが既に温泉としての形ができているのがわかります。
硫黄泉で薬効があること、医療の仏である薬師観音の祠があることも書かれています。これは、地獄谷から硫黄の採掘を行っていた岡田半兵衛が共同浴場の形を整えたもの。明治21年、滝本金蔵が湯守となり、私費を投じて道路を整えたおかげで、多くの湯治客を迎えることになりました。そして明治末期、日露戦争の傷病兵保養地として指定されたことで、広く名前が知られることになり、その後登別温泉は観光地として発展していきました。
温泉の祭り

登別温泉の「登別地獄まつり」は8月に開催されます。この祭りは地獄の釜のふたが開いて、閻魔大王が鬼たちを引き連れて登別温泉を訪れるという伝説が元になっています。伝説に従い、閻魔大王像のからくり人形を乗せた山車(約6メートル)が湯鬼神(ゆきじん)と呼ばれる鬼に扮した数人に寄り添われ、登別温泉極楽通りをパレードをして祭りをもりあげます。
祭りのクライマックスの地獄谷花火大会には太鼓とドラの音が鳴り響く中、湯の守り神『湯鬼神』が登場。『湯鬼神』たちは人々の無病息災を願う舞を踊り、集めた厄を詰めた手筒花火を、天高く放ちます。湯鬼神は太鼓を打ち、舞い踊り、手筒花火の火炎で人々のさまざまな厄を拾い、焼き、幸運を願ってくれる人間に優しい鬼です。

多くの温泉では泉源の近くに薬師堂が建てられ、薬師が湯を守り、人々は病の仏である薬師に病を癒してもらう願いを込めて手を合わせます。登別温泉では薬師の代わりに鬼が湯を守り、鬼が人々のすべての厄を払う神とされています。秋田県男鹿半島に伝わるナマハゲは神の性格と鬼の恐ろしい性格の両方を持つとされます。登別温泉の鬼も鬼の姿をしながら、神であることを表しているのかもしれません。